研究授業「国語」〜若手教師へのエール〜

理想の学校

先日、若手の研究授業が行われた。
私は、「研究部長」
当然、研究授業を参観した。

その授業は
「『不便』の価値を見つめ直す」というテーマで論説文を書く、という課題であった。
授業者の若手教師は、新任。
昨年度までは大学生。
今年度、教師そして社会人1年目だ。

教室に行くと、少々ザワザワしていた。
他の先生が、このクラスの授業していた時に、入った。
その時とは、違った。

話し声も聞こえるし、物音も気になる。
いつも、こんな雰囲気なのだろう。

授業が始まると、この若い教師は語った。

ページの隅々までメモをしたノートを片手に、詳しく説明し、たくさん語っていた。

一生懸命に準備をしたことは伝わってきた。

だが、気になることが2つ。

1つは、「目的と違う」

この授業は「論説文」を書くことが目的だ。

どのように文を構成するか。

どのような工夫をして文章を作るか。

そこを教える授業、そして教えたことを参考にし、「論説文を書く」授業。

語っていたのは、書き方ではなく「不便益」について。

簡単に言えば、「不便だと思っていることにも、いいことがある」

彼は自分が気づいた「不便益」をいくつも語っていた。

そういえば前日、前校長がこの新任教師に指導していた。

「自分のことを語っていてよかった」

だが、それも限度があるだろう。

語りが多すぎる。

しかも、だ。

この授業は「論説文」を書くことが目的。

「先生の考えを聞く」授業ではない。

結局、論説文を書くコツについてはほどんと説明されることがなく、自分の経験や思いを語っていた。

2つ目。

授業の主役は「教師」ではない。

たくさん準備をした「教師」が主役になる必要はない。

授業の主役は「子ども達」だ。

新任の教師には指導教員がつく。

それは、前校長。

そう、あの人だ。

ほぼ、1年間指導してきて、授業の基本のスタイルが

「古い」

これは、良い意味ではもちろんない。




今はアクティブラーニングが推奨されている。

授業の主役は、紛れもなく、「子ども達」なのである。

授業後、私は、この教師にアドバイスをした。

私が、授業をするなら•••

①論説文の書き方を教える

文章構成はもちろんであるが、文の書き方の工夫も教える。

文章構成は仮に3部構成なら「はじめ」「中」「終わり」

中学校なら、別の言い方であろう。これは小学校での教えたことだ。

さらに、文にも工夫する。

具体的な例を挙げたり、数値を入れて説得力をつける。

問いかけや体言止め、一文一意など、わかりやすくする工夫はいろいろある。

「不便益」のことより、こちらを私なら、たくさん語る。

②子ども達が交流する授業づくりをする

①のように書き方を説明したら、早速子ども達に文章を書かせる。

であるから、授業開始10分後には、文章を書き始めている。

彼の授業では、25分経ってから、文章を書き始めていた。

授業の半分が過ぎているではないか。

私の場合、授業の半分過ぎた時に、子ども達が書いた文章を交流させる。

彼の授業だと、子ども達は自分で文章を書いて終わりだった。

それでは、「自己満足」に終わってしまう。

文章の価値を決めるのは「読み手」

その「読み手」の評価なしで、本人だけの個人評価で終わってはいけない。

自分達が書いた文章を交流し、良いところを交流する。

そして、アドバイスもする。

友達の文章の良さに気づく。これはよき見本となる。

アドバイスをもらい、文章を書き直す。

良き文章を書くためには、「推敲」が必要なのは、間違いない。

「推敲」することを、この授業の中で、体験させるのだ。

そして、そうすることで、子ども同士が交流し、互いに学び合い、高め合う授業になる。

これは、この若手教師へのエールである。

コメント

タイトルとURLをコピーしました